大判例

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福岡地方裁判所 昭和55年(行ウ)22号 判決

原告

斉藤淑子

右訴訟代理人弁護士

岩本洋一

石井将

南谷知成

右訴訟復代理人弁護士

用澤義則

南谷洋至

被告

北九州西労働基準監督署長

浅野均

右訴訟代理人弁護士

山口英尚

右指定代理人

池上邦利

外五名

主文

一  原告の訴えのうち被告が斉藤重利に対して昭和五一年九月六日付けでした労働者災害補償保険法に基づく療養補償給付の不支給処分の取消しを求める部分を却下する。

二  被告が原告に対して昭和五一年一一月九日付けでした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付、葬祭料及び休業補償給付の不支給処分を取り消す。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

(当事者の求めた裁判)

第一  請求の趣旨

一  被告が斉藤重利に対して昭和五一年九月六日付けでした労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく療養補償給付の不支給処分を取り消す。

二  主文第二、第三項と同旨

第二  請求趣旨に対する答弁

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

(当事者の主張)

第一  請求原因

一  斉藤重利(昭和七年一月一一日生、以下「亡重利」という。)は、昭和二一年四月一〇日、三菱化成工業株式会社(以下「三菱化成」又は単に「会社」ともいう。)に就職し、会社経営にかかる黒崎工場(北九州市八幡西区所在)において、昭和二三年三月から昭和四九年一二月まで二六年間にわたって、コールタールの付着し又はコールタール揮発物のばく露を受ける作業に従事した。同人は、これが原因となって肺がんに罹患し、昭和四九年一〇月に実施された健康診断で発見され、種々の治療を受けたが、肺がんの肝転移を起こし、肝性昏睡のため、昭和五一年七月一一日死亡した。

二  亡重利は、生前、被告に対し、自己の肺がんが業務上の疾病であるとして労災保険法に基づく療養補償給付の請求を行った。また、同人の妻である原告は、被告に対し、亡重利の死亡が業務上のものであるとして労災保険法に基づく遺族補償給付、葬祭料及び休業補償給付の請求を行った。しかし、被告は、亡重利の疾病及び死亡が業務上の事由によるものとは認められないとして、前者の請求に対しては昭和五一年九月六日に、後者の請求に対しては同年一一月九日にそれぞれ不支給処分(以下、双方の不支給処分を併せて「本件各不支給処分」といい、後者の請求に対する不支給処分のみを指すときは、単に「本件不支給処分」という。)をした。

原告は、本件各不支給処分を不服として、同年九月二〇日に右療養補償給付不支給処分について、同年一一月二二日に本件不支給処分についてそれぞれ福岡労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたが、昭和五四年三月二七日、右各請求は棄却された。原告は、更に、同年四月一六日、労働保険審査会に対し再審査の請求をしたが、昭和五五年七月三一日、棄却の採決がされた。

三  しかし、亡重利は、黒崎工場において長期間コールタールの付着し又はコールタール揮発物のばく露を受ける作業に従事したことにより肺がんに罹患し、死亡するに至ったものであることは明らかであり、同人の疾病及び死亡は業務に起因するものである。

四  よって、原告は、被告に対し、本件各不支給処分の取消しを求める。

第二  請求原因に対する認否

一  請求原因一の事実中、亡重利が昭和二一年四月一〇日三菱化成に就職し、黒崎工場においてコールタール揮発物のばく露を受けるおそれのある作業に従事したこと及び昭和五一年七月一一日死亡したことは認めるが、その余の事実は知らない。

二  同二の事実は認める。

三  同三の主張は争う。

第三  被告の主張

一  事実の経緯

1 亡重利の被告に対する療養補償給付の請求

亡重利は、昭和五〇年六月六日、被告に対し、療養補償給付の請求をした。請求の事由は、次のとおり同人が業務上疾病に罹患したというものであった。

発病年月日 昭和五〇年一月六日

災害の原因及び発生状況 亡重利は、昭和二三年三月から昭和四九年一二月まで二六年間にわたり、タール蒸溜工場、石炭酸類捕集精製工場及びカーボンブラック製造工場の設備機器の点検、修理、保全及び監督業務に従事しており、その間断続的にコールタールにばく露された作業を行ってきたため発病したのではないかと考えられる。

傷病の部位及び状態 肺がん

2 被告の事実調査

被告は、亡重利の右請求に対し、直ちに被告職員吉田博らに命じて、亡重利の勤務先、同人が受診した病院の関係者について、その勤務状況及び生活状況並びに発病原因、傷病の部位、程度及び治療経過等の事実関係を調査させた。その結果は次のとおりであった。

ア 亡重利の勤務歴、家族関係等

亡重利は、昭和二一年四月一〇日、北九州市八幡西区黒崎所在の三菱化成黒崎工場に採用され、同工場技能者養成所へ入所し、二年間の研修を終えた昭和二三年三月一三日同工場施設部機械一課に整備員として配置され、以後同工場コークス部、整備課及び保全課整備員として勤務するうち、昭和五〇年一月発病したものであり、これ以外の職歴は全くない。

また、その家族関係は、昭和三五年一〇月に結婚した妻(原告)と二子があり、実父母は既に死亡し、兄弟姉妹六名中三名死亡、三名が健在である。

イ 亡重利の発病、病状の経過等

亡重利には、従前特記すべき既往症がなかった。同人は、昭和四九年一〇月一四日会社で実施された定期健康診断でエックス線写真上右肺上葉に病影が発見され、胃液培養、痰の細胞診を行ったが、特に異状は認められなかった。ところが、同年一二月断層撮影によって右病影の増大が認められたので、同人は、昭和五〇年一月六日会社付属病院に入院し、精密検査を受けたが、診断を確定しうる所見が得られず、同月二一日九州大学医学部付属病院呼吸器科に入院し、斜角リンパ節生検により腺がんであることが確認され、エックス線検査等を実施した結果、原発性肺がんと診断された。

しかし、右肺がんにはリンパ節転移があったため、手術が行われず、右両病院においてコバルト照射及び免疫化学療法等の治療が実施された。その結果、右病巣が縮小したので、同人は、同年五月三〇日一旦退院した。その後、更に入退院を繰り返したものの、右肺がんの肝転移を起こし、肝性昏睡のため昭和五一年七月一一日死亡した。

亡重利の生活歴

亡重利は、もともと頑健な身体を有するスポーツマンであり、特段の既往歴はなかった。喫煙量は、一日にハイライト等を一五本程度、飲酒量は夕食時ビール中瓶一本程度であり、特記すべき生活歴はない。

ウ 職場環境

亡重利がコールタール揮発物のばく露を受けるおそれのある作業に従事した事実はあるものの、いずれも間接ばく露の作業であった。しかも、一日の作業時間は、短時間かつ断続的なものであった。また、環境測定結果からみれば、ばく露の程度は、コークス炉上又は炉側作業等に比較すると、著しく低く、過去に高濃度のばく露があったという事実はなく、加えて同職種に従事する労働者に肺がんの高率発生その他の異常所見は認められなかった。

エ 関係医師の意見

会社の医師横尾正庸及び医師永利博美は、亡重利の肺がん発病の原因として、長期間断続的ではあるが、ばく露されて来たコールタールの影響を否定することはできないとの意見を述べ、一方、九州大学医学部付属病院の医師石橋凡雄は、亡重利の年齢、肺がんが未分化大細胞がんであることや職場環境等を総合すれば、業務とかなり関連性の深い肺がんであるが、純医学的には、右肺がんがコールタール揮発物のばく露を受けたことにより発生したと断言しうる根拠はないと述べている。

3 本件各不支給処分の実施

ア 被告は、右調査結果等に基づいて、亡重利の請求を慎重に検討したが、同人の肺がんと従事業務との間に相当因果関係を認めがたく、したがって、右疾病は労働基準法施行規則(昭和五三年改正前のもの。以下「改正前の労基規則」といい、現行のものを単に「労基規則」という。)第三五条各号に規定する業務上の疾病のいずれにも該当しないとの結論に達し、昭和五一年九月四日不支給処分をし、同日付け通知書をもってその旨原告に通知した。

イ その後、原告は、右処分に対して不服申立をする一方、亡重利の死亡が業務上の疾病に該当するとして、昭和五一年一〇月二八日書面をもって遺族補償給付、葬祭料及び休業補償給付の請求をし、被告がこれに対し昭和五一年一一月九日付けで同様の理由により不支給の決定をした。

二  タール様物質による肺がんに関する医学的研究と法令上の取扱い

1 今日においても、がんの原因や発症のメカニズムに関しては不明の部分が多い。しかし、特定の化学物質等への職業的ばく露により発症することが明らかに認められる特定のがんがあり、これらは労基規則別表第一の二第七号に掲げられている。これらを「職業がん」と呼ぶことがある。

タール様物質への職業的ばく露と肺がんとの間の因果関係が医学上認められているものは、「製鉄用コークス又は製鉄用発生炉ガスを製造する工程における業務のうち、コークス炉上若しくはコークス炉側又はガス発生炉上において行う業務に五年以上従事した労働者に発症した原発性の肺がん」である。この見解は、現時点までの疫学的研究を主体とする種々の分野からの研究結果の総合的判断によるものである。

2 労基規則別表第一の二

ア 昭和五三年の改正

業務上疾病の範囲は、労働基準法(以下「労基法」という。)第七五条第二項の規定に基づき、改正前の労基規則第三五条に定められていたが、産業技術の進歩、労働環境の変化に伴い、同規定に定められていない業務上疾病が少なからず発生してきたため、昭和五三年の改正により、労基規則別表第一の二に業務上疾病の範囲が明らかにされた。

イ 労基規則別表第一の二第七号一三の規定

労基規則別表第一の二は、職業がんをその第七号にまとめて掲げている。第七号一三には、「コークス又は発生炉ガスを製造する工程における業務によるがん」と規定されているが、この規定の作成に当たっては、製鉄用コークス又は製鉄用発生炉ガスを製造する工程における業務のうち、コークス炉上若しくはコークス炉側又はガス発生炉上において行う業務について肺がん発生の超過危険が認められ、これらの業務と肺がんとの因果関係が確立していることが考慮されている。現在における医学上の知見から判断すると、製鉄用以外のコークス又は発生炉ガスを製造する工程については、がん発生の超過危険が認められていないので、このような工程に従事した労働者の肺がんの業務起因性が認められることは稀なことと考えるべきである。

3 認定基準(労働省労働基準局長昭和五七年九月二七日付け都道府県労働基準局長宛て通達)

ア 認定基準の性格

業務上の疾病の範囲については、労基規則別表第一の二及びこれに基づく告示に定められているところであるが、各疾病の発症の条件等をすべて詳細に法文化することは困難であり、また、医学的な知見の進展に対応して弾力的に対処することができるようにするため、抽象的な表現になっている。この抽象的な表現では明らかにされていない発症の条件等を法令の解釈として行政通達の形で補足したものがいわゆる「認定基準」である。これは、当該疾病についての現在の医学的知見を集約し、当該疾病と業務との関係について有害因子とそのばく露期間等及びこれによって惹き起こされる疾病の病像、経過等を示したものである。

タール様物質による疾病の認定基準は、労働省労働基準局長の私的諮問機関として設置された「タール様物質とがんの検討に関する専門家会議」の医学的専門的意見に基づいて、当該疾病の業務起因性の有無を判定するための具体的な基準として作成されたものである。この専門家会議においても、タール様物質による肺がんとしては、「製鉄用コークス又は製鉄用発生炉ガスを製造する工程における業務のうち、コークス炉上若しくはコークス炉側又はガス発生炉上において行う業務に五年以上従事した労働者に発症した原発性の肺がん」を医学的に因果関係が認められたものとしている。

イ 認定基準によらない業務起因性の有無の判断

認定基準に該当すると判断された疾病以外の場合でも、業務上の疾病として取り扱われることがある。すなわち、認定基準に示されていない疾病について、これを業務上の疾病であるとして労災保険給付請求がされた場合には、それぞれの事案ごとに有害因子へのばく露状況、当該疾病に関する医学上の資料等を可能な範囲で把握したうえで検討を加え、その結果業務と疾病との間に因果関係が存在すると判断されたときは、業務上の疾病として労災保険法による保険給付の対象とするものとしている。また、認定基準に示されている疾病について労災保険給付請求がされた事案であって、認定基準に該当しないと判断されたものであっても、これによって直ちに業務上の疾病ではないとされるものではなく、それぞれの事案ごとに可能な範囲で検討を加え、その結果業務と疾病との間に因果関係が存在すると判断されたときは、業務上の疾病として労災保険法による保険給付の対象とされる。

この場合、その判断に当たっては、収集された諸資料をもとに、専門的見地から慎重に検討がされなければならない。特にがんの業務起因性の有無に関する判断を行う場合において、認定基準に示されていないものや認定基準に示されていても形式的にはこれに該当せず認定基準をもって判断することが不適当なものについては、収集した資料を専門家に示して医学上の意見を求めることが一般に行われる。このような事案の中でも、とりわけ慎重な検討を行うべきであると考えられたものについては、労働省労働基準局長の私的諮問機関として設置する専門家会議において検討が行われることが少なくない。

亡重利の肺がん及びこれによる死亡の業務起因性の有無の判断に当たっては、この専門家会議において十分な検討を加え、その結果を重要な参考資料として使用している。

4 特定化学物質等障害予防規則(以下「特化則」という。)

特化則は、昭和四六年労基法に基づいて制定された労働省令(第一一号)であるが、昭和四七年労働安全衛生法の制定に伴い、この法律に基づくものとされ(同年労働省令第三九号)、その後昭和五〇年労働省令第二六号等による数次の改正を経て今日に至っている。

タール様物質のうちコールタールが特化則の規制対象とされたのは、昭和四七年の労働安全衛生法施行以降であり、この当時から健康診断の項目に肺がん発見のための検査項目が加えられていた。また、特化則第三八条の九に規定されているコークス炉にかかる措置は、昭和五〇年の一部改正によって規定されたものであるが、製鉄用コークス炉の炉上又は炉側における作業に従事する労働者の肺がん発生の超過危険の存在を明らかにした報告がされたことが右改正の背景となっている。

原告の労働保険再審請求書には、亡重利が会社でもコールタール取扱業務従事者として肺がんを対象とした特殊健康診断を受診していたとの記載があり、また、医師永利博美及び同横尾正庸は、亡重利が右の特殊健康診断を受けてきたのであるから同人の肺がんは業務上の疾病と考えざるをえないとしている。しかし、この見解は、業務上の疾病と予防の対象となる疾病との間に若干の差異があることを理解していないために生じた誤解にすぎない。業務上の疾病と認めることができるがんは、業務との因果関係が医学的に解明されたものに限られるのである。一方、特化則の規制対象とされ、又は特殊健康診断の対象とされる業務は、広範囲なもので、その業務に従事した者に将来がんが発症する可能性を完全に否定しがたく、一般的にがん原性物質へのばく露の開始からがん発生までのいわゆる潜伏期間が長いことから、将来万一がんが発生してからでは遅いので念のためにこのような業務を規制対象としているのである。一般に、職業性疾病については、万一の発生を防止する意味で予防する業務の範囲、規制の程度を広くかつ高くとるのが普通であり、規制の対象となっているからといって、当該業務に従事した者に発生した疾病を直ちに業務上の疾病とすることができないのは当然のことである。

三  亡重利にかかる肺がんの業務起因性の判断

1 タール様物質へのばく露

ア タール様物質へのばく露の期間、頻度等

亡重利は、昭和二一年四月一〇日、三菱化成に入社した者である。入社後昭和二三年三月までの約二年間は、黒崎工場技能者養成所に入所しており、タール様物質へのばく露はない。昭和二三年三月に施設部に配属されて以来、昭和四九年末までの間約二六年九か月にわたって、整備課、保全課等の整備員として修繕工場、カーボンブラック中間試験工場、チャンネルブラック工場、ファーネスブラック工場、タール工場、フェノール工場(石炭酸工場)、ガス工場及びベンゾール工場において機械設備の検査、修理、仕上げ等の作業に従事した。

原告は、亡重利のタール様物質へのばく露期間について、昭和二三年三月から昭和四九年一二月まで二六年間にわたり工場においてコールタールが付着し又はコールタール揮発物のばく露を受ける作業に従事したと主張している。しかし、同人は、昭和二五年四月一日から昭和三三年六月三〇日までの八年三か月間は修繕工場における工具取扱見習、旋盤構造研修、軸材料運搬、軸旋削見習及び軸旋削加工の各業務に従事しており、この期間中にはタール様物質にばく露するおそれのある作業(以下「タール作業」ともいう。)には従事していない。したがって、同人がタール作業に少しでも従事した期間は、一八年六か月である。

ここにいうタール作業とは、コールタール揮発物を吸入するおそれのある作業である。肺がん発生の超過危険の存在が知られているのは、コークス炉又はガス発生炉から発散されるコールタール揮発物を大量に吸入する作業の従事者についてであって、身体にコールタールが付着する作業の従事者については右の危険は認められていない。また、本件の疾病は、皮膚がんではなく肺がんであり、身体に付着したコールタールの肺がん発生に対する影響を全く否定することができないとしても、吸入したコールタール揮発物によるそれに比較すると考慮するに当たらないというべきであって、少なくとも作業時間等を考察するに当たっては、これをコールタール揮発物を吸入するおそれのある作業と同列に論ずることはできない。

亡重利がタール作業に従事した頻度及び時間についてみると、昭和二三年三月二六日から昭和二五年三月三一日までの期間については、年間当たりの頻度は四回、年間当たりの作業時間は一二時間で総労働時間の約0.6パーセントである。昭和三三年七月一日から昭和三六年七月三一日までの期間については、二種類のタール作業があって、年間当たりの頻度はそれぞれ八回、一回当たりの作業時間はいずれも一〇分余(0.2時間)であり、その合計の作業時間は、3.2時間であって、総労働時間の約0.15パーセントにすぎない。こういったことを考慮すると、同人の実質的なタール作業への従事期間は、昭和三六年八月以降の一三年五か月とする見方も可能である。昭和三六年八月以降においては、タール作業の頻度及び作業時間が右の時間に比較すると増加しているが、それでも当該作業時間の総労働時間に対する割合が一五パーセントに至る年はない。

亡重利が従事した作業は、タール作業以外の作業が混在しており、タール様物質へのばく露が断続的であったことは明らかである。昭和四四年一月以降把握されている時間外労働時間数をみると、月により変動があるが、一日平均二時間を超える月は、昭和四四年四月、昭和四六年八月、昭和四九年九月及び一〇月の計四か月だけであり、格別長時間の時間外労働であったとは考えられない。ましてや、このような労働の態様が体力の減退等となって肺がんの発生に影響をもたらすとの見解は、医学的根拠もない。

イ タール様物質のばく露濃度等の状況

亡重利がばく露されたタール様物質の濃度を直接示す資料はないが、コールタール蒸溜工場及びタール工場についての環境測定結果があるので、これに基づいて推定するのがもっとも合理的である。

昭和四九年五月に測定したコールタール蒸溜工場及び周辺のタール様物質の気中濃度は、一立方メートル当たり0.02ないし0.07ミリグラムの範囲であり、環境管理上の目安の一つとして用いられる許容濃度一立方メートル当たり0.2ミリグラムを参考にすると、十分に低い濃度である。また、昭和四八年以降概ね半年ごとに測定されているタール工場におけるそれも、右許容濃度を十分下回っている。これらの数値は、単に許容濃度に比較して低いというだけではなく、肺がん発生の危険性という観点から考察しても十分に低いことが明らかである。すなわち、マズムダルらは、肺がん発生率とタール様物質のばく露積算量(タール濃度×作業月数)との間に、「量―反応」関係が認められることを示し、タール様物質のばく露積算量が二〇〇では肺がん発生の増加は認められないとしている。亡重利の場合、十分なゆとりをもたせて、仮にタール様物質の気中濃度を一立方メートル当たり0.2ミリグラム、ばく露期間を二六年九か月としてタール様物質のばく露積算量を計算してみても、64.2となり、前記積算量を大幅に下回っている。

原告は、亡重利の身体や肌着の汚れについて言及している。これらの汚れは、タール様物質によるもののほか、カーボンブラックやその他の粉塵などによるものも含まれていると考えられること、付着したタール様物質には冷却されたものもあって、揮発しにくく、呼吸器系に吸入されるタール様物質は極めて少ないと考えられること等からすれば、右の汚れがタール様物質へのばく露の程度を示していることにはならない。

亡重利がタール様物質の気中濃度が蒸溜工場やタール工場よりも高いコークス炉の炉上に上るのは、年に三ないし四回であったとされ、また、同人の作業場がコークス炉から約九〇メートル離れたところにあったため、風向きによってはタール様物質へのばく露の可能性があるが、そのような風向きは年間日数にして三分の一程度であったとされている。しかしながら、炉上に上るのは回数が少なく、また、作業場の位置についても、タール様物質を含んだ空気が大気により大幅に希釈されることを考慮すると、これらが亡重利のタール様物質へのばく露の程度を増大させる役割は極めて小さかったと考えられる。

いわゆるガス斑の所見の存在は、タール様物質へのばく露が大きかったことを裏付ける一つの指標とされることがある。亡重利にガス斑の所見があったことを示す資料はなく、その所見がなかったものと考えざるをえない。もっとも、この結果のみによってタール様物質への大量のばく露が直ちに否定されるものではないが、大量のばく露がなかったことを推測させるものである。

2 医学的診断等

ア 肺がんの組織型

亡重利の肺がんの組織型は、解剖の結果によれば、未分化大細胞がんと判定されている。

がんの組織型から個々の症例の原因を判断するのは困難であるが、文献によれば、偏平上皮がんは大気汚染やタバコといった外因性の因子の影響で発生しやすいこと及び日本の肺がん組織型の構成比においては、外因性の因子の影響で発生しやすい偏平上皮がんが増大し、未分化大細胞がんが減少していることが示されている。このことに研究者の発見したガス発生炉作業者の肺がん一二例中組織型の把握された三例がいずれも外因性の因子の影響で発生しやすいとされる偏平上皮がんであったことを併せ考えると、むしろ、亡重利の未分化大細胞がんがタール様物質を原因とするものであることと矛盾することになろう。

イ 同僚労働者らの肺がんの発生

黒崎工場におけるコークス炉及びコールタール関係作業従事者の中からは、コークス炉の炉上及び炉側作業に長期間従事して原発性肺がんに罹患し業務上の疾病と認定された佐藤慶雄を除き、肺がん患者は見出されていない。また、亡重利と同職種の労働者に肺がんの高率発生を認めたとの国内外における疫学的研究報告又は症例報告は見当たらない。この状況は、亡重利の肺がんとタール様物質との関連を考察するうえで、これを否定する重要な根拠の一つである。

3 業務起因性の有無の判断

ア 労基規則別表第一の二第七号一三に掲げる疾病への該当の有無

亡重利の疾病は、原発性肺がんではあるが、労基規則別表第一の二第七号一三には、次の理由により該当しない。すなわち、①業務上の疾病として法令に具体的に明示されたものは、業務と疾病との因果関係が医学的に認められた疾病であるが、亡重利の従事した検査、修理等を行う整備員としての業務については、肺がんとの因果関係について医学的知見が得られていないこと。②「コークス又は発生炉ガスを製造する工程における業務」とは、常態的に当該工程において作業に従事する業務をいうものであり、亡重利のように、当該作業場に時に立ち入ることのある者の業務まで含むものではないと解すべきであること。そのように解しなければ、事務連絡等で立ち入る事務員らあらゆる関係者を包含することとなり、不合理であること。

イ 業務起因性の判断

亡重利の肺がんが労基規則別表第一の二第七号一三に該当しないことは明らかであるが、仮に当該疾病に業務起因性が認められるのであれば、同表第七号一八(「一から一七までに掲げるもののほか、これらの疾病に付随する疾病その他がん原性物質若しくはがん原性因子にさらされる業務又はがん原性工程における業務に起因することの明らかな疾病」)に該当することとなる。そこで、亡重利の疾病について業務起因性の有無を検討すると、次のとおりである。

亡重利と同職の労働者については、肺がん発生の超過危険の存在を示した疫学的研究はなく、医学上、当該職種と肺がんとの因果関係が一般的に存在するとの知見は示されていない。また、黒崎工場においては、同職種の労働者から肺がんの発生は把握されていない。

亡重利のタール作業従事期間は一八年六か月と長期間であるが、作業時間は、一回に三〇分以下の短いものが多く、断続的で、当該作業時間の合計も多いときでも総労働時間の一五パーセント以下である。また、ばく露したタール様物質の気中濃度は十分に低いものであり、ばく露期間と気中濃度の双方を考慮に入れたばく露積算量は、大きく見積もっても、これまでの知見で発がん最少閾値とされるレベルに比較して十分に小さいものである。

更に、亡重利にはいわゆるガス斑の所見は認められておらず、これらを総合的に考えると、亡重利のタール様物質へのばく露の程度は、これまでに認められている発がん閾値と比べ、極めて少なかったと判断されるべきである。

以上のことから、亡重利の肺がんについて、業務起因性の存在を認めることはできない。

第四  原告の反論

一  亡重利の肺がんの業務起因性

1 亡重利は、昭和二一年三月に高等小学校を卒業し、同年四月三菱化成に入社し、昭和五〇年一月肺がんと診断されるまで黒崎工場に勤務していた。その間、技能者養成所勤務であった昭和二一年四月から昭和二三年三月までの二年間を除き、濃厚なタール及びその分留物又はその揮発物にばく露され続けた。

ア 昭和四七年五月に、コークス炉作業者の肺がん問題が報道されたのを契機として、コールタールの有害性に関する一般の認識が急速に高まった。それ以前は、使用者も、労働者も、更に国も、コールタールについて注意をほとんど払っていなかった。すなわち、労働現場では、労使とも、四肢又は被服へのコールタールの接触について全く無関心であり、コールタール揮発物のばく露、吸入についてもコールタールタンクの内部点検の際に防毒マスクなどをする位で、それ以外のばく露防止措置はとられていなかった。この認識の高まりの結果、国がコールタールを労働安全衛生法施行令において第二類物質に指定して初めて労働衛生的規制を行うことになった。

なお、亡重利が各年ごとにタールに接触する作業に従事した時間の調査があるが、これには、昭和四三年以前の分は記録がなく、推測によるほかない。実際には、もっと多かったと考えられる。また、昭和四四年以後のものも、平常作業以外の突発又は臨時に行われる作業についての調査がされておらず、実際はもっと長時間にわたっていたと思われる。同人は、保全課の他の者よりも現場にいる時間が長かった。

イ 保全課員が濃厚にタール揮発物に汚染されていたことは、昭和五二年以前の特化則健診で二五名中三名にガス斑があったことからも明白である。しかも、この比率は、コークス課、化工課よりも高率である。このことは、保全課員のタール汚染が炉上、炉側作業を行うコークス課と変わらないことを示している。亡重利も、タール焼けの症状を訴えていたのであって、この点からの同人のタールばく露の程度が著しかったことが明らかである。

ウ 突発事故等

保全課の仕事でタール揮発物にもっともばく露されるのはグランドパッキンの取換えである。これは、ポンプの小さな隙間からタールが霧状に吹き出した中で作業するのである。この作業は、パッキンが旧式であった時期には数日、カーボン繊維のパッキンを使い出してからも長くて四〇日しかもたないために、多数のポンプについて頻繁に作業が行われた。そして、突発事故の際は、保全課の責任者である亡重利に連絡されることになっており、同人が現場へ行くことが多かったため、タール様物質にばく露される機会が多かった。

2 保全課員の肺がん多発

昭和四九年頃保全課に在席していた二五名の従業員のうち亡重利のほか古玉直が肺がんで死亡している。保全課員二五名のうち二名が肺がんに罹患したというのは、非常な高率であり、保全課員の肺がんの業務起因性を強く推認させる。このほかにも、城ケ野文男、諸藤重行、長川和清ががんにより死亡している。一応、諸藤は胃がん、城ケ野、長川は肝臓がんで死亡したとされているが、その原発部位は不明であって、もし肺が原発部位であったとすれば、さらに高い肺がん発生率となる。

3 医師の意見も、亡重利の肺がんがコールタールの影響を否定できないという点で一致している。すなわち、黒崎工場の産業医である医師永利博美の診断は、「肺がん発生の要因として長期間断続的であるが、ばく露されてきたコールタールの影響を否定することはできない。」とし、三菱化成黒崎病院医師横尾正庸も永利医師の意見どおりとし、特化則の健康診断の対象となった疾病に罹患した当該患者の場合業務上の疾病と判断せざるをえないとしている。さらに、元九州大学講師の医師石橋凡雄は、「本人が四三歳の若さであったこと、肺がんの種類が未分化大細胞がんであったこと、現在はともかく、過去の三菱化成構内の環境等を総合的に考えれば、本人の業務とかなり関連の深い肺がんであると考える。」と判断している。同医師は、黒崎出身で工場付近の過去の大気汚染状況と医学知識から、このように判断したのであって、過去の大気中のタール濃度や業務中のタールばく露の程度が不明確な本件にあっては、この判断は重視されなければならない。

以上のとおり、亡重利を診断した医師は、業務と肺がんとの因果関係を積極的に肯定し、又は因果関係を否定できないとし、いずれも業務上疾病と認定されるべきであるとの意見を有している。

二  国の業務外認定の誤り

1 疫学調査の不実施

亡重利の肺がんが業務に起因するか否かについて正確に判断するためには、疫学調査を行うのが最適である。ところが、国は、亡重利と同種の労働者に関して十分な調査を行っていない。

労働省は、昭和五〇年二月からコールタール関係業務とがんとの因果関係について検討するための疫学調査を開始した。ところが、この調査の結果は集計公表がされていない。資料収集のうえ検討されたのかどうかも不明である。黒崎工場においては、一年以上の勤務者八九八名を調査し、死亡判明者でその原因が肺がんの者はいないと注記して、労働省に報告している。その中から現在までがん患者が続出している。このことを考慮に入れていない調査が不備であることは明らかである。多数の企業、全国各地にある工場の労働者に関する疫学調査を行うことは、国にしかできないことである。これをしないまま、亡重利の肺がんを業務外と決定したのであるから、この決定内容は正確性がない。

2 国は、コークスの炉上、炉側作業以外では業務による肺がんが発生しないと主張し、ロイドの論文その他の調査結果もその主張に反しないという。しかし、ロイドの人種差を考慮した調査では、コークス副産物職場等めったにコークス炉に近づくことのない職場の非白人労働者に呼吸器系がんが統計上有意に多発していることが指摘されている。

3 一般用コークス炉でも、肺がんは発生する。すなわち、昭和五六年四月以降三年一〇か月の間に某製鉄所及び化学工場のガス発生炉作業経験者に四例、コークス炉作業経験者に四例、計八例の肺がん発生した。この社会医学的背景と臨床像について、「ガス発生炉及びコークス炉作業経験者に発生した肺がんの臨床的検討」と題する論文が発表された。これによれば、コークス製造化学工業における二人は、制度上健康管理手帳の交付もなく、入院時七〇歳、七七歳の高齢で、その臨床像は、進行が極めて早く、発見時すでに遠隔転移が認められた。また、八例のうち一例を除き他はすべて五五歳以上の退職者であり、八例中六例が七〇歳以上と肺がんの発生が高齢化していることが注目される。併せて、製鉄用コークスの場合でも、健康管理手帳で発見された場合でも、そのすべてが三ないし四期の進行がんである点が大きな問題点として指摘され、退職後も健康管理も含めて現在の健診体制に問題を提起している。

4 職業がんの発生については、中毒と異なり、発がん物質の微量のばく露でもがんが発生する。このことからすると、強力発がん物質のベンツピレンを含むタールの場合、少量のばく露によっても十分肺がんを発生させるものである。この点からしても、亡重利の肺がんと業務との間に因果関係が存するといえる。

(証拠)〈省略〉

理由

第一療養補償給付不支給処分取消しの訴えについて

労災保険法に基づく療養補償給付請求権は、同法第一三条により現物支給を原則とするものであって、亡重利の一身専属の権利であるから、同人の死亡によって当然消滅したと見るべきである。したがって、原告が亡重利の妻であるからといって、同人の死亡後同人に対するその不支給処分の取消しを求めることはできない。この点に関する原告の訴えは、不適法であって、却下を免れない。

第二遺族補償給付、葬祭料および休業補償給付の不支給処分取消請求の事案の概要

一請求原因一の事実中、亡重利が昭和二一年四月一〇日三菱化成に就職し黒崎工場においてコールタール揮発物のばく露を受けるおそれのある作業に従事したこと及び昭和五一年七月一一日死亡したこと並びに請求原因二の事実は、当事者間に争いがない。

二右の争いのない事実に〈証拠〉を総合すると、本件事案の概要が次のとおりであると認められる。

1  亡重利の略歴

ア 亡重利(昭和七年一月一一日生)は、昭和二一年三月福岡県八幡市立花尾高等小学校を卒業し、同年四月一〇日三菱化成に就職し、二年間技能者養成所において教育を受けた後、昭和二三年三月黒崎工場施設部機械一課(昭和二四年一一月一日コークス部整備課に改称。昭和三六年八月同部保全課に改称。)に配属され、修繕工場において整備員として働き始めた。以後、作業場所は変遷したが、その内容は、別表1及び別紙図面のとおりである(保全課詰所からコークス炉である2炉までの距離は、およそ九〇ないし九五メートルである。)。

イ この間、原告と昭和三五年一〇月に結婚し、同人との間に二児(昭和三七年生の長女と昭和四〇年生の長男)をもうけている。

ウ 亡重利は、元来スポーツマンであり、特に病歴はない。喫煙量はハイライト又はエコーを一日一五本程度であり、飲酒量も夕食時にビールを中瓶一本程度であった。

エ 兄弟姉妹は六名いたが、三名は死亡しており、そのうち一名は胃がんで死亡した。なお、父は栄養失調、母は脳出血で死亡している。

2  発病から死亡までの経緯

亡重利は、昭和四九年一〇月一四日実施の定期健康診断でエックス線撮影を受けた。その際、右肺尖部に陰影が認められ、同年一二月断層撮影でその増大が認められた。昭和五〇年一月二一日、九州大学医学部付属病院に入院し、精密検査の結果、原発性肺がんと診断されたが、両側頚部リンパ節への転移があって手術に適応しなかったことから、放射線治療、免疫化学療法による治療を受け、これにより病巣が縮小したので、同年五月三〇日退院した。

その後、同人は、同年九月一一日から同年一〇月三日まで、同年一一月六日から同年一二月二六日まで同病院へ入院して治療を受けていたが、昭和五一年四月一三日同病院へ入院した際、胸骨先端部への転移が発見され、更に肝臓へ転移を生じ、肝性昏睡のため同年七月一一日午前零時死亡した(当時四四歳)。死亡後の解剖により、同人の肺がんは、組織学的には未分化大細胞がんと判定された。

3  手続の経緯

ア 亡重利は、死亡前の昭和五〇年六月六日、被告(当時は、八幡労働基準監督署長)に対し、自己の肺がんが業務上の疾病であるとして、労災保険法による療養補償給付の請求をした。被告は、労働基準監督署員である吉田博、下川力夫らに調査をさせたほか、労働省労働基準局長の諮問機関である専門家会議の検討結果の報告をも参考にして、亡重利の肺がんが業務上のものとは認められないとの理由で、右請求について昭和五一年九月六日付けをもって不支給処分をした。

イ 原告は、昭和五一年一〇月二八日、被告に対し、亡重利の死亡が業務上の疾病によるものであるとして、労災保険法による休業補償給付、遺族補償給付及び葬祭料の請求をした。被告は、業務上の疾病による死亡とは認められないとして、同年一一月九日付けをもって不支給処分をした。

ウ 原告は、本件各不支給処分を不服として、福岡労働者災害補償審査官に対し審査請求をしたが、昭和五四年三月二七日付けで右審査請求は棄却された。

エ 原告は、更に、昭和五四年四月一六日、労働保険審査会に対し再審査請求をし、昭和五五年三月一三日審理が行われたが、同年七月三一日、棄却の裁決がされた。

オ そこで、原告は、本件各不支給処分の取消しを求め、昭和五五年一二月二九日、本訴を提起した。

第三亡重利の肺がん、死亡の業務起因性について

本件不支給処分は、審査請求、再審査請求を通じ、その理由として、亡重利のタールばく露がいわゆる間接ばく露であり、製鉄用コークス炉上、炉側の作業に比べて作業時間も短く、タール濃度も低かったので、そのばく露量が著しく少ないこと、同種作業員に肺がんの発生が見られないこと、同人にガス斑がないことを一貫して挙げている。

確かに、〈証拠〉によれば、亡重利と同時期に療養補償給付の請求をした佐藤慶雄が三〇年以上の勤務のうち製鉄用コークス炉上作業に二六年間従事して、直接ばく露時間も長く、ガス斑の発症も見られたことから、支給処分を受けたことが認められるので、同人に比べると、亡重利の場合は、かなり条件が異なるといわなければならない。

そこで、亡重利のタールばく露量を中心に調べていくこととする。

一タール様物質の発がん性について

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

1  タール様物質の定義とタールの発生

タール様物質又はタールという言葉は、極めて多義に用いられている。本件事案のように、職場におけるばく露という点で問題になるタール様物質については、「石炭、木材などの乾留(空気を遮断して固状有機物質を強く熱する操作)や石油、ナフサなどの熱分解により生じる褐色又は黒色の粘稠性液体」と一応の定義づけができる。以下では、「タール」の語を「タール様物質」と同義に用いることとする。

コールタールは、石炭を乾留して得られるタールをいい、低温(乾留)タール、高温(乾留)タールがある。コールタール(粗タール)を加工したものに、精製タール、無水タール、舗装用タールがある。また、コールタールの蒸溜残渣をコールタールピッチと呼ぶ。

コールタールは石炭の乾留によって生じるが、高温乾留は工業的に主としてコークスを製造する目的で行われ、高温乾留装置はガスレトルト、ビーハイブ炉及びコークス炉に大別される。コークス炉は、副産物回収式の室炉であり、製鉄用コークス及び鋳物用コークスの製造に用いられている。

2  タール様物質の測定

タールを取り扱う職場における作業者へのタール侵入経路として、もっとも重要なものは気道であり、この侵入経路に関与するタールは、職場に存在するタールのうち、空気中へ飛散した粒子状のタールか、浮游粉塵に付着して存在するタールである。したがって、タールを取り扱う職場における健康障害評価のためのタールの測定は、作業環境空気中の浮游粒子状物質を捕集し、その中のタール分を測定することとなるが、具体的には、採取した浮游粒子状物質のベンゼン可溶分をもってタールとする方法が採られている。以下、「タール濃度」又は単に「濃度」というときは、空気中のタール様物質(ベンゼン可溶分)の濃度を指すものとする。

3  タール様物質と肺がんの関係

タール様物質が発がん性物質であることは、つとに指摘されているところである。しかし、タール様物質の中で人の肺がん発生の危険を高める成分は、現在も、特定されておらず、一〇年以上三〇年に及ぶ潜伏期間を経て発症するため、肺がんの臨床像や組織型によってタール様物質によるものかどうかの判定をすることができないといわれている。

タール様物質のばく露があると考えられる職種の中で、現在までの報告により、製鉄用コークス又は製鉄用コークス炉ガスを製造する工程における業務のうちコークス炉上若しくはコークス炉側又はガス発生炉上において行う業務については、肺がん発生の超過危険が疫学的に認められいる。他の業務について、肺がんの超過危険の存在することが疫学的に認められたとする学術報告は、これまでに存しない

空気中のタール濃度が作業環境評価の指標として測定されることが多いが、作業環境濃度と肺がん発生の関係を直接対応させた研究は少なく、現在のところ、環境中のタール様物質と肺がん発生の「量―反応」関係を量的にいうことは困難である。しかし、多くの疫学的研究によれば、炉の種類、作業内容、ばく露年代、従事期間等の区分で比較すると、ばく露量の多いと考えられる区分に危険の高いことを大体矛盾なく説明することができ(例えば、製鉄用ガス発生炉作業及び製鉄用コークス炉上作業がもっとも危険が高く、次いで同炉上と炉側両者を担当する者、炉側のみの作業と続いている。また、従事年数に着目すると、五年以上の従事群は、五年未満の群よりも危険度が高い。)、「量―反応」関係が存在していることを推測することができる。もっとも、これら測定の多くは最近のものであり、肺がんの潜伏期間が長期であることを考慮すると、報告例にもっとも関係の深い過去のばく露を十分に推定するには至らないとされている。

肺がん発生の危険をばく露量と直接関連づけた唯一の研究として、マズムダルらによる一九七五年の報告がある。この研究では、アメリカ合衆国の一〇の工場で、一九六六年に三一九点の観測点を設け、作業環境中タール濃度を測定し、一一種類の職種を三群にまとめ、各群の平均環境濃度の推定値を決め、各作業者の業務歴から、「推定濃度(一立方メートル当たりのミリグラム)×就業月数」の合計をもって累積ばく露量の指数(以下、「指数」というときは、この指数を指す。)とした。その結果、指数が二〇〇を超えると肺がんによる死亡の危険が明らかに高まること、すなわち、「量―反応」関係の存在することが確認された。

なお、アメリカン・カンファランス・オブ・ガバメンタル・インダストリアル・ハイジニスト(「ACGIH」と略される産業衛生学者の団体。)は、タールの許容濃度(作業環境空気中の汚染物質の濃度で、その濃度にばく露されながら働いている労働者の大多数が毎日繰り返してその状態で労働を続けても健康障害を起こすことがないと考えられる濃度をいう。)は、一立方メートル当たり0.2ミリグラムとしている。

二行政の基準

1  前掲各証拠によれば、次のような事実が認められる。

タール様物質と肺がんとの関連性が世上話題になりはじめてから、労働省は、専門家会議を開き、その検討結果報告書を基に、労働基準局長が昭和五七年九月二七日付けで都道府県労働基準局長に宛て、タール様物質による肺がんの認定基準について、次のとおり通達を発した。

①製鉄用コークス又は製鉄用コークス炉ガスを製造する工程における業務のうち、コークス炉上若しくはコークス炉側又はガス発生炉上において行う業務に従事した労働者に発症した肺がんであって、右の業務に五年以上従事した労働者に発症したものであること及び原発性のものであることのいずれの要件をも満たすものは、労基規則別表第一の二第七号一三に該当する疾病として扱うこと。

②右①の業務従事歴が五年未満の労働者又は右の業務以外の業務であって、その作業条件(炉の型式、炉温、タール様物質の気中濃度、作業従事歴等)から見て、右①の業務に匹敵するようなタール様物質へのばく露が認められるものに従事した労働者に発症した原発性の肺がんについては、当分の間、関係資料を添えて本省に稟伺すること。

③肺がんについては、原発性のものであることが必要であるので、原発性のものであるか、転移性のものであるかの鑑別に留意しなければならない。

タール様物質による肺がんについては、その臨床像及び組織所見に関して、非職業性の肺がんとの間に差異を見出せない。但し、ガス斑が存在する皮膚の所見は、タール様物質へのばく露を裏付けるよい指標となるものである。

2  右の基準の枠組みは、疫学的に明らかに業務起因性の認められたのが「製鉄用コークス又は製鉄用発生炉ガスを製造する工程における業務のうち、コークス炉上若しくはコークス炉側又はガス発生炉上において行う業務に五年以上従事した労働者に発症した原発性の肺がん」のみであることを考慮すると、②の趣旨が右の疫学的に業務起因性の認められた作業に準じるだけの作業に従事した者に肺がんが発症した場合についても、労基規則別表第一の二第九号に該当するものとして業務起因性を肯定しうるというところにあると解される。

右の基準は、労基規則別表第一の二第七号一三又は第九号の解釈指針であるが、本件各不支給処分がされた当時の昭和五三年労働省令第一一号による改正前の労基規則第三五条第三一号、第三八号をより明確にしたものにすぎないと解されるから、亡重利の肺がんの業務起因性を検討するについて、右の基準に従うこととする。

もっとも、亡重利の肺がんが未分化大細胞がんであって上皮がんではないから、改正前の労基規則第三五条第三一号には該当せず、もっぱら同条第三八号に当るかどうかが検討の対象になるといえよう。そして、同人の肺がんが原発性のものである点は問題がないにしても、認定基準②の要件の有無、すなわち、同人の従事した業務が認定基準①の業務以外の業務であったから、右①の業務に匹敵するようなタールへのばく露が認められるかどうかを気中濃度、作業従事歴を中心に検討しなければならない。

三亡重利のばく露したタール様物質の量について

1  亡重利がタール様物質のばく露を受けた時間について

〈証拠〉によれば、亡重利がコールタールに接触する作業(タールの付着した物を扱う作業)及びコールタールの雰囲気中における作業(タールの通っているパイプの漏れの修理等)を行った時間は、三菱化成が試算したところでは別表2のとおりであることが認められる(同表が作成された経緯につき、〈証拠〉によれば、亡重利の在職中の労働時間のうちコークス炉等タールに接触する機会あるいはタール雰囲気中にいる作業として定期点検をした頻度と所要時間、又は修理をした頻度と所要時間を経験的に、あるいは関係者の記憶により、一応算定したということであり、当初まとめたものと後にまとめた同表とで時間数が食い違い、結局同表に従っていることが窺われるうえ、同表注記のように、昭和四四年以前については、必ずしも資料に基づくものではない。)。

そして、被告は、コールタールに接触する作業はタールが冷えた状態で取り扱われることが多く、直接揮発物を吸入することはほとんどないと推認されるとしたうえ、コールタール雰囲気下での作業時間だけが亡重利のコールタールばく露を受けた時間であると主張する。確かに、工場外であれば、揮発成分が急速に大気中に拡散するので、ばく露濃度が比較にならない程低くなると考えられるが、先に認定したとおり、亡重利が就労していた作業場所は、そのほとんどがコークス炉の近辺かタール工場内かであり、保全課の詰所と2炉というコークス炉との間の距離が約九〇ないし九五メートルであって、しかも〈証拠〉によれば、黒崎工場の近辺では三日に一日の割合ではあるがコークス炉から亡重利の就労場所の方へ向けて風が吹いていた状況が認められるうえ、同人がことさらタール様物質を扱う機会でなくても、多かれ少なかれ、常に一定のばく露を受けていたといいうるから、被告の右主張をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。

これらすべての事情をかれこれ考え合わせると、亡重利がタール様物質のばく露を受けた期間は、もっとも長く見るならば、原告の主張するように、同人が黒崎工場で働いた昭和二三年三月二六日から昭和四九年一二月三一日までの二六年九か月間という長期間になるが、タールとは無縁の作業に従事した期間があるので、被告の主張するように、昭和二五年四月一日から昭和三三年六月三〇日まで旋盤作業見習及び加工等に専従した八年三か月間を除外した一八年六か月間、又は、もっとも短く見るならば、昭和三六年八月以降に限った一三年五か月間となる。はっきりしたばく露という観点からは、この一三年五か月間に絞るのが相当であろうが、だからといって、その余の期間を全く無視してよいということにはならないであろうと考える。

本件においては、亡重利がタール様物質のばく露を受けた期間として、長短にかなりの違いがあるとはいえ、そのばく露量を調べるに当たっては、その双方を視野におさめながら、検討を加えて行くこととする。

2  亡重利のばく露したタール様物質濃度について

先に認定したとおり、タール様物質のばく露と肺がんの発生との間に「量―反応」関係があることは、十分に推測しうるものの、これを量的に述べることは、極めて困難である。前示のように、マズムダルの報告によれば、指数が二〇〇を超えると肺がん発生の危険が高まるということも、一つの目安になろう。亡重利が就労した作業場所のタール濃度について、〈証拠〉によれば、昭和四九年五月に行ったタール工場の環境測定結果が別表3のとおりであることが認められる。この結果では、微量ということになろう。ただ、特化則が昭和四六年に労基法に基づいて制定され、翌四七年の労働安全衛生法の制定に伴い、同法に基づくものとされたが、同年に特化則がコールタールを規制対象としたことにより、〈証拠〉によれば、黒崎工場においても、作業環境の大幅な改善(昭和四七年六月排気の放散防止、昭和四八年七月タール受槽の密閉化、同年一二月詰所の改善など。なお、その後、昭和五〇年九月ピッチ置場の発塵防止、同年一〇月ピッチ移送時の排気発散防止。)が行われたことが窺えるので、このような改善が行われる以前については、タールの有害性についてそれ程深刻な関心が払われず、亡重利の作業現場の環境測定が行われたのかどうかも定かでなく、行われたとしてその結果がどうであったか、その測定方法や正確さがどうであったかは、本件において全く不明である。同人と同様に肺がんに罹患し業務起因性の認められた黒崎工場の佐藤慶雄の審査の際の資料として、〈証拠〉によれば、製鉄用コークス炉(旧コークス炉)の装入車運転室内の粉塵測定結果では、昭和三一年三月には一立方メートル当たり平均26.9ミリグラム、昭和三七年九月30.9ミリグラム、炉上では、昭和三一年三月には平均16.4ミリグラム(最高31.4ミリグラム、最低2.0ミリグラム)、昭和三七年九月には平均12.4ミリグラム(最高24.0ミリグラム、最低6.3ミリグラム)、昭和四五年には平均20.3ミリグラム(最高45.0ミリグラム、最低6.0ミリグラム)、地下室では昭和三一年三月には平均6.5ミリグラムであったことが認められる。この数値のうちタールの含まれている割合については具体的な数値がないとはいうものの、しかし、その濃度は、別表3に示された程度ではなく、かなり高かったのではないかとの類推は容易にできよう。タール工場以外の作業場所についても、資料がない。

そこで、確実な資料のない以上、手掛かりとして、他のコークス工場等におけるタール濃度の測定結果などを参考にしてみる。もとより、炉上、炉側とは条件の違うことは、考慮に入れて検討する必要がある。

ア 先に認定したとおり、亡重利が昭和二三年三月二六日から昭和三二年六月三〇日までの約九年三か月間就労した修繕工場、中断期間を挾んで約五年五か月間就労したガス工場は、コークス炉に隣接する位置にある。この二つの作業場所は、タール様物質の濃度という点では、コークス炉側作業者のうち装填機械運転工、消火車運転工、加熱係、あるいは炉修理員といったほとんど炉に近づかないか、僅かの時間しか炉の近くで作業しない者の作業場所に似た環境にあったと比較する余地があろう。

〈証拠〉によれば、アメリカ合衆国ペンシルベニア州において一九六六年に一〇か所のコークス炉で作業員三一九名の作業場所におけるタール濃度を調査し、作業内容により三群に区分したうえで得られた結果が別表4のとおりであると報告されたことが認められる。同表によれば、ほとんど炉に近づかないか、僅かの時間しか炉の近くで作業しない者でも、平均して一立方メートル当たり0.88ミリグラムの濃度でタール様物質のばく露を受けていたことが窺われる。この平均値を先の就労期間合計一四年八か月を当て嵌めてみると、その総量を指数にするとこの期間だけで、154.88になる。

イ 〈証拠〉によれば、亡重利が中断期間を挾んで約九年六か月間就労したタール工場は、タール蒸留設備を備えており、既に昭和三四年には工場の一部が建設されていたことが認められるので、この設備は、どちらかといえば、旧式のものであったと推認される。〈証拠〉によれば、タール蒸留工場におけるタールの気中濃度は、昭和五〇年の労働省の調査によると、旧式の蒸留作業場では一立方メートル当たり0.08ないし0.32ミリグラム(平均0.11ミリグラム)、ピッチ置場では一立方メートル当たり0.14ないし0.32ミリグラム(平均0.29ミリグラム)であったことが認められる。

これを参考にするならば、亡重利は、タール工場に就労中少なくとも右と同程度の濃度のタール様物質のばく露を受けていたと見る余地がある。しかも、同人は、右期間中、別表2の試算に従うとしても、年間二百数十時間タール様物質の雰囲気下で作業をしていたのであり、〈証拠〉によれば、タールポンプからタール漏れを生じると、人が近づきにくい程の蒸気がタールから発生していたことが窺われるので、亡重利が修理を行っていたのは、そのような状態が止んだ後であったとしても、作業環境中のタール濃度が相当高かったと察せられる。したがって、亡重利のタール工場における就労期間を通じてみれば、ばく露したタール様物質の総量がかなり高くなると考えられる。

ウ 〈証拠〉によれば、昭和四九年から昭和五一年にかけて、黒崎工場においてコークス炉及びその周辺でタール様物質濃度を測定したところ、別表5のとおりの結果であったことが認められる。このうち高い濃度を示したのは、昭和四九年七月六日測定の2炉(製鉄用、一般用)炉上のタール濃度が一立方メートル当たり3.16ミリグラム、昭和五〇年二月二六日測定のA炉(3炉、製鉄用)炉上のタール濃度が一立方メートル当たり4.03ミリグラムであったのであるから、認定基準によれば、この程度の濃度の下でも、五年間作業に従事した者に原発性肺がんが発症すれば、業務起因性を肯定することとなるが、この測定が昭和四七年の特化則制定の際黒崎工場の環境改善が行われた後のことであることを考えると、炉上のみならず、炉の周辺又は工場内では、それ以前の状態がかなり高濃度であったことを容易に推測することができよう。

エ 〈証拠〉によれば、タール高温分留物の蒸気に反復してばく露する者の上肘、頚部、胸部又は背部に撒布状に発症するバラ色の皮疹、すなわち限局性(斑状)毛細血管拡張を見ることがあり、これを我が国の産業現場では通常「ガス斑」と呼んでいることが認められる。認定基準がこのガス斑の存在をタール様物質ばく露の指標の一つとしていることは前示のとおりである。亡重利には、このガス斑があったと認めるべき証拠はなく、むしろなかったものといわれており、被告は、このことが同人のタール様物質ばく露量の多量さを否定する要素の一つと見ているようであるが、ガス斑の発症がタールばく露による肺がんに必然的に伴うものとはいえないうえ、認定基準にいうガス斑の発症も、業務起因性を肯定する積極的要素であることをいうに止どまり、ガス斑のないことをもってそれを否定する要素であるとまでいうものと解することはできない。〈証拠〉によれば、同人の同僚である保全課所属の二五名を対象にした健康診断の結果、そのうち三名の者にガス斑の発症が確認されたことを認めることができる。診断の行われた時期や右の三名の作業経歴が明らかでないものの、この事実は、かえって、亡重利の従事していた保全課の仕事も、決して低くない濃度のタールばく露を受けるものであったことを示す証左であると見ることができよう。

オ 亡重利の発がん年齢について見ると、〈証拠〉によれば、肺がんは、一般に、六〇歳を越える者に多いことが認められる。〈証拠〉によれば、タール様物質とがんの検討に関する専門家会議の報告書(昭和五五年六月七日)には、一〇年以上のばく露によって発がんの危険が高まり、高濃度ばく露では比較的若年で発がんし、低濃度ばく露ではがん年齢に達してから有意に高い発がんを示すとあることが認められる。亡重利は、四二歳という若年で肺がんを発病している。これとても、逆に考えれば、同人が一六歳のころから黒崎工場でタール様物質のばく露を受けてきた結果であることを推測させる事実ということができる。

カ その他の事情として、前記のとおり、亡重利が一日当たり一五本程度のタバコを嗜む習慣があったことを認めることができ、一般に喫煙と肺がん発生との因果関係は肯定されており、〈証拠〉によれば、前記専門家会議の報告書には、多環式芳香族化合物類へのばく露を伴う喫煙の要因を無視することはできないとの記載があることが認められるが、他に確たる資料はない。亡重利の場合、同人には特に既往症がなく、健康であったことは、既に認定したとおりであって、同人の肺がんとの因果関係は必ずしも明らかとはいいがたく、同人の肺がんの主たる原因とする根拠は乏しい。

キ 他方、同人の肺がんが同人の業務に起因するものでないことを積極的に窺わせるような事情は、本件全証拠によるも、見当たらない。

被告は、亡重利が従事していたようなコークス炉にほとんど近づかない業務の者については、肺がん発症の危険性が疫学的に認められていないことを重視する。しかし、そのような業務に従事していた者についても、量の多少は別として、タール様物質のばく露を受けていた点では、同様に肺がん発症の危険を否定するのは困難であると推認するのが相当である。なお、〈証拠〉によれば、黒崎工場の保全課員であった古玉直(大正五年三月二〇日生。昭和一〇年五月一日三菱化成に就職、昭和四七年四月一日退職。)が昭和五七年四月肺がんを発症し、昭和五八年七月二〇日死亡したこと、同人は、昭和二〇年八月二〇日から昭和二三年三月三一日までの間タール工場に在勤しただけで、その余の期間は保全課等に勤務した者であったことが認められる。これ以上の詳細は、本件において明らかでなく、亡重利と同列に見るべきものかどうか即断することのできることではないが、ただ本件不支給処分後の事情として、原告は指摘している。また、被告は、がんの組織型の観点から、外因性の因子によって生じる肺がんが偏平上皮がんであるのに亡重利の肺がんが未分化大細胞がんであったことを指摘して、同人の肺がんがタールばく露によるものとは考えにくいと主張する。しかし、前記労働省労働基準局長通達も、上皮がんを積極的な肯定の徴表とはしているが、これ以外の組織型を排除したものとは読み取れないうえ、〈証拠〉によれば、タール様物質ばく露による肺がんの組織型としては、偏平上皮がんだけでなく、腺がん、未分化がんのいずれも報告例があることを認めることができるから、被告の右主張も失当である。

四亡重利の肺がんと死亡の業務起因性について

本件不支給処分は、前記認定基準によるかぎり、一応、これに沿ったものということができるので、被告が認定基準の趣旨を忠実に遵守する以上本件不支給処分をしたのは、それなりに理由のないことではないというべきかもしれない。しかし、本件不支給処分の理由に掲げられている中で、「①一八年六か月にわたりコールタール揮発物のばく露を受ける作業に従事していたことは認められるが、これらの作業が間接ばく露作業であり、そのばく露程度が製鉄用コークス炉上または炉側作業における場合に比べると著しく低いものと考えられる、②一日の労働時間中の間接ばく露作業が断続的かつ短時間である、しかも、過去においてばく露が高度であったとか、局所的に高濃度ばく露があったとかの客観的事実も認められない、③同職種の労働者にガス斑が認められないなどの理由により業務遂行性は認められるが、業務起因性は認めがたい。」との趣旨が裁決まで一貫して述べられている。しかも、〈証拠〉によれば、裁決においては、①昭和四九年五月の測定値である別表3に関連して、特化則制定前の状態につき、「表示値よりは高かったものと推認されるがその程度は一桁違うことは想定されず」とか、②ばく露量が「佐藤慶雄に比べると桁違いに少量であったと推認される」とか、③亡重利の作業場所のタール「濃度は往時といえども許容濃度を大幅に上まわるものではなかったと認められ」とか述べて、結局、同人のばく露量が佐藤慶雄の一〇分の一程度であることを重視していることが認められる。しかし、黒崎工場の改善前の状況が改善後と一桁も違うなどということを想定しえないという部分を裏づける資料は何も見当たらないし、改善前のタール濃度が許容濃度を大幅に上まわるものではなかったとの点を窺うような資料もない。むしろ、その逆を想定し、少なくともACGIHの示した許容濃度一立方メートル当たり0.2ミリグラムを超えていた可能性が十分にあると見ることさえ不自然ではないというべきであろう。しかも、ばく露程度が製鉄用コークス炉上又は炉側作業における場合に比べると著しく低いと言っている部分も、佐藤慶雄に比べて少量であったというに止どまる相対的なものにすぎず(〈証拠〉によれば、再審査の審理における原処分庁の意見もそうであると認められる。)、それも確実な数量を把握したものでないことは既に示したところである。また、一日の労働時間中の間接ばく露作業が断続的かつ短時間であるというのも、先に触れたように、亡重利のタールばく露時間を佐藤慶雄のそれと比較したとき、確かにいわゆる間接ばく露であり、タール様物質の存在する作業場での作業時間が断続的で短いことはいうまでもないが、これは、認定基準が製鉄用コークス炉上等の作業につき五年以上従事としていることと対比すべきであって、三〇年以上の長期間従事した佐藤慶雄の作業時間と比較し、その一〇分の一であることを理由とするのは当をえないのではないかと思われる。そうすると、間接ばく露であり、タール濃度の低さを考慮に入れても、亡重利の一八年六か月間、又は一三年五か月間の期間の長さを今少し斟酌すべきであり、問題は、それでもなおかつ認定基準①に匹敵するようなものでないといえるかどうかに帰着しよう。別表2のうちタールばく露時間の算定も明確な資料によるものでなく、経験又は記憶によって算定したものにすぎないことも、前示したとおりであるが、それはそれとして、同表に掲げられたばく露時間以外の時間が全くばく露を受けていなかったともいえないのではないかと考える余地があり、これを全く無視して考えるのは、やや正確さに欠けるのではなかろうか。したがって、亡重利のタールばく露量を一概に少量のものとして排斥するのは、やや早計に失する嫌いを拭えない。

一方、認定基準のもとになった専門家会議の結果によると、タールばく露と肺がんの因果関係は、疫学的調査によるほかなく、製鉄用コークス炉上等作業における五年以上の従事者に関しては優れた調査があってほぼ確実にこれを認めることができるとはいうものの、何分にも数量的に把握することの困難な分野であり、他方、その近辺にいた者については未だ肺がんの報告は現時点においても何もないというだけで、肺がんとの因果関係を否定する確実な資料に乏しいことも考慮に入れる必要があろう。裁決も含めて、本件不支給処分による被告の判定は、確実な資料を欠くにもかかわらず、いわば一つの推定の域を出るものでなく、未だ積極的に否定するだけの根拠として確立したものとはいえないというべきであり、その確度も他の資料を排除する程高いものとはいえない。亡重利が長期間にわたってタール様物質のばく露を受けていたことをいささか軽視しすぎるといわざるをえない。原告には認定基準に達するばく露量を具体的な数量として確定し証明する資料に欠けるとはいえ、先に挙げた資料からその量を推定する場合、多めに見れば認定基準に達していた作業環境の中にいた可能性が十分にあり、また、逆に、少なめに見れば否定に傾くという本件の状況下において、否定資料の確度もさほど高くなく、亡重利の肺がんが原発性のものであって、多年タールばく露を受けていたこと、それも少なからぬ量であったと推定しうること、ガス斑がなかったとはいえ、黒崎工場の従業員、保全課の従業員にもガス斑の発症した者がいたことなど周辺の資料を併せ考えると、同人の肺がんが認定基準の前記②(製鉄用コークス炉上等作業につき五年以上従事に匹敵するようなばく露量)の要件を充足していた可能性を否定することはできないのではないかと考える。したがって、亡重利の肺がんは、業務に起因する蓋然性又はその可能性がかなり高いといわねばならず、そうであれば、改正前の労基規則第三五条第三八号に該当するものであると認めるのが相当である。

亡重利の死因が肺がんの肝臓転移による肝性昏睡であったことは、先に認定したとおりである。そして、右肺がんに業務起因性が認められる以上、同人の死亡についても、業務起因性を認めることができる。

第四以上のとおりであるから、亡重利の肺がん及び死亡に業務起因性が認められないとした労災保険法に基づく本件不支給処分は、その認定を誤ったもので、違法であり、これを取り消すべきである。

第五よって、本訴中亡重利に対する療養補償給付の不支給処分の取消しを求める訴えを却下することとし、本件不支給処分の取消しを求める請求は、理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条、第九二条但書を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官富田郁郎 裁判官大島隆明 裁判官岡田健)

別紙〈省略〉

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